月別: 2014年10月
【TAROの日記】

2014/10/29(水) 08:31

アイボ

NHKでアイボの修理終了に困っている愛好者の様子が放映されていた。
仕方ないとはいえ、SONYも罪なことをするものだ・・。

他人ごとなので、「犬だって死ぬからなー」と思ってみていたけれど、愛好者の様子を見ていると、結構容易ではないなーと思った。
しかし、壊れて動かなくなったら、土に埋めてあげるしか無いだろう。動かなくなった愛犬を飾っておくよりもマシだと思う。

アイボ愛好家に訪れる将来の悲しみから比べれば、屁のようなものだけど、私のオーディオも似たような状況にある。
コンポのどれか一つでも壊れたら、そこで終了。
騙し騙し使っている。

一度、最も危ういCDプレイヤーについては、新しいものの導入を考えたけれど、どうにも音が気に入らない。
そして、今日にまで至っている。

アメリカではアナログが復活し、宇田川町にも新しいHMVができて、オウガ・ユー・アスホールの新譜には、カセット音源まで入っていたりして、アナログの音の復活がヒシヒシと感じられるけど、実は、機械はない・・というのが現実だ。ちょっと気の利いたカセットデッキだって手に入らない。最早、語学練習用の便利なカセットレコーダーさえなく、市場にあるのは、おもちゃみたいな安物だけ.
ソニーが少し頑張っているけど、あの携帯型は扱いづらい上に、スピーカーが後ろ側なのが難。

・・というわけで、トヨタ2000GTをこよなく愛するような世界がそこら中で起きているみたいだ。

私を含めて、無常を受け入れられない人々は、思い出も抱き合わせながら徘徊を続けるしかないんだなーと思う。自分についてはすでに諦めている・・。

【TAROの日記】

2014/10/28(火) 08:26

iTunesが大きくバージョンアップした。
昨日仕事をしながら使っているうちに慣れてきて戸惑いはすぐになくなった。

ところが、今朝、iTunesがない。
どこを見てもアイコンがない。
マックの下にあるアイコンの列を右から左、左から右と見るけれどない。とにかく、ない。

「どこにいったんだー」と焦っていると、目の中に赤いアイコンが飛び込んできた。iTunesである。
今回のバージョンアップで、赤になったらしい。

色を変えるなどという冒険をやらかして・・・と思いつつも、既存客相手なら何でもできるという例でもあったりして、道路同様に明日になったら私だって慣れてしまう。「昔は、青だったんだよー」と言う時が来るだろう。
・・・というか、これからバージョンアップごとに色を変えてくることもあり得るわけで、こうなると緑でも黄でもドンと来い!という気がする。

しかし、そんなiTunesの新装とは真逆に、本日朝の私が聞く音楽は、70年代ロックやクレプスキュールのオムニバスだったりしている。

そういえば、私が通うジムの21歳の若きトレーナーは、最近、70年代~80年代ロックにはまっている・・と言って、ジムのスタジオでBGMをいろいろかけている。
しかし、ニューウェーブがまったくない。そこで、「なんで、ニューウェーブはないんだ。この間、ロキシーとかも鳴っていたじゃないか!」と聞くと、ロキシーって何?ニューウェーブって何?という反応だった。

どうも、70~80年代オムニバス音源をわからないまま鳴らしているらしい・・。
しかし、その音源には、つまらん産業ロックなどはあるというのに、最も面白いところの音はなく、ブラックナイト@パープルや後期イエス、後期エアロやTOTO、ディスコ系いろいろで構成されているようである。

ある時、さすがに70年代BGMのラインナップが辛いと指摘すると、アメリカンチャート近辺のブラックミュージック中心のものに変えてくれた。
これが面白い。同じ産業音楽でも、リズムがまったく違うのだ。
ヒップホップ前と後のリズムの変換がこんなに凄かったのか・・と改めて思った。

私達は意識はしていないけれど、70~80年代の音楽を、ヒップホップ後の耳で聞いている・・というわけである。
確かに、ブラックナイトとか非常に退屈だ(まー、当時もそうだったけどね・・)。これはヒップホップ耳のせいなのだと思う。

青のアイコンに慣れた目には、赤のアイコンは見えない。
見えても、妙な感じが残る。
しかし、赤に慣れてしまえば、青は、懐かしさであり、古臭さで、少し時間が経つとリバイバルになる可能性もある。

そんなわけで、メジャーコードの中で鳴る♭3を身体が知った時、私達は戻れなくなって、ヒップホップ後にはさらに戻れなくなった。
アメリカでは、ずいぶん、戻れなくなった人達が大衆にも増えてきていて、大きなムーブメントになりつつあるらしい。
昔の洗濯機やテレビにはちょっと戻りたくないように、そのうちスタバなどにも戻りたくなくなることだろう。

とても遅い動きだったと思うけれど、マックにはそれが起きたのだと思う。

【TAROの日記】

2014/10/27(月) 08:32

再び、道路

久しぶりに、新潟に帰ってきた。

会社の駐車場に入る時に不思議だったのが、とてもスムーズに入れたこと。
車を入れながら「あ、そうか・・・、新しい道ができたからだ」と思った。

すでに、新しい道は普通だ。
久しぶりにここに通勤した私には新鮮だけど、驚くほどに普通で、最早、前のことは記憶の彼方。
私が、以前の車の入れづらさを覚えているのも後数日だろう。

その道路の開通に合わせて地元スーパーが新しい道路沿いに開業した。
飲食店が数店、100円ショップ、安い床屋なども同時に開業した。
前にも書いたが、この店群の開業の必然性はまったく感じられない。
100円ショップ・・・とか相当にズレている・・と思うけれど、この田舎ではまだ旬なのだろうか?

ところで・・・・・・。
部屋の模様替えをしている。
そのため、東京で時間があるときは、ハンズやロフトなどを回った。
こんなことをするのは久しぶりのことだ。

そして、目的のものは買えなかったけれど、財布をはじめとして、前から買わなくてはならない・・と感じていたものを買った。
ついでに、HMVの新しい店などにも行ったりして、レコードやCDもたくさん買った。

新しいHMVにはやられた。
この懐かしさはどう表現すればいいのか?
そして、それが新しきものと同居している。
こんな売り場を前にして商品に手を出さないわけはない。
奥の方は、以前のCDショップの売り場的でつまらなさも感じたけれど、全体的には好きだ。空気がいい。

何かを変えようとすれば、消費は動く。
そして、店が新しいコンセプトを提示しても消費は動く。
同時に、新しい消費の方向も微かに見える。

窓から見える100円ショップや安い床屋、廻り寿司・・・などには、何も感じない。
それを必要にしている人もいるだろうけど、何だかつまらない。
そして、昔の金物屋などの景色と重なっていく。

チェーンオペレーションを基盤にした某社は、あることをたまたま見つけてしまったと思う。そして、最高決算。
HMVは、ニッチ市場の海に漕ぎ出すカケに出た。
窓から見えるコスト逆算会社(と呼ぼう・・)の群れは、何も見つけていない。

ただ、遠くに伸びた道だけが魅力的だ・・・・・・・・。

【TAROの日記】

2014/10/17(金) 08:38

溢れる本

何度目の限界がきたか忘れてしまったが、また本棚が足りなくなった。
そこで、再び本棚の工事をすることになったのだけれど、焼け石に水なのは見えている。

数年前に、本のために農協の空店舗(鉄筋コンクリート)を買おうとしたけれど、相談した設計士に止められてやめた。
それから、本は減らしていこう・・と心に決めた。

・・・・・・・・・・

どうも、心は決まっていなかったみたいで、今の事態。
良い本も大量にあるけれど、つまらん本も大量にあるわけだから整理すればいいはずなのに・・・。
自宅のCDも捨てようと昨年決めつつ、いくつか箱に入れただけで止まっている。

最近、音楽はデータで買うようにはなってきた。・・と言っても、データでしか出ていない場合に限るので、前向きではまったくない。

そして、電子書籍なんて、私のようなものには、冗談みたいなもので、あり得ない。
昨日も、『奥の細道』を電子書籍(99円)で買ったけれど、調べもののためにすぐ見たかったからで、それ以外の理由はない。
むしろ、『去来抄』の電子書籍がなくて怒っている。
電子書籍が提供側の都合であることを如実に表す現象だと思う。

家のリビングに『人造人間キカイダー』の復刻本がある。
一昨日、復刊ドットコムから届いたものだ。
昨日、1巻を開けて眺めてみた。
んーーーーーー、懐かしい。
『サイボーグ009』の復刻本ほどの感動はないけれど、ジェミニィというルビを見るだけでうれしくなる。
だいたい、当時で、このコンテだ。すごいなーと思う。

『英雄伝』全巻、箱入りが邪魔になって、どうしよーと思っているうちに開けてしまって、現在1巻を読んでいる。
テセウスとロムルスの比較を見ながら、過去のことを思い出す。
本そのものがボロボロなので慎重になる。こういうのが味である。

『お望みなのは、コーヒーですか?』は久しぶりに読んだ2段の本だった。
電子書籍ではどうするのか?
おそらくページが倍になるのだろう。
本文だけで270ページだから、500ページを超えることになる。あり得ないな・・・・・・・。

溜まる、溜まる、本は溜まる。
際限なく溜まる。
ついでに、巨大な復刻本が場所を埋め、全巻セットがとぐろを巻く。
私の運命はいかに・・

【TAROの日記】

2014/10/16(木) 08:30

ぼくのペットはいぬです。

新潟にいるときは、必ず、ブログを書くことにしている。
はじめてから7ー8年くらいは出張中も書いていたけれど、今はそこまではやっていない(することができない)。

しかし、「書くことにしている」だけで、それ以上の目的はないので、かなり適当だ。
時々、乱れたままの文章がそのまんまアップされているときもある。
「まー、そんなものだ・・」という個人の暗黙的なお約束(それを、言い訳とはまったく思っていない)を前提に今日まで続いている。

そこで、道路ができたこととか、疲れていることとか、お天気のこととかを話のネタにして、後は勝手に手が動くのに任せている。
つまり、何を書きたいかという意思は私にはない。

では、書いている私は誰なのか?
そう問うと、答えはすぐに降ってくる。
書き手はいない。
これが答えだ。

では、どうして文章は残るのか?

ここに人類みんなの勘違いがあると思う。
それは文章には書き手がいるという勘違い。
文章があれば、その裏には書き手がいる。
誰もが直感的にそう思う。
しかし、それは本当にそうなのだろうか?と私は思うことがある。

ちなみに、本日の文章は、こんなことを書いているわけなので、オカモトが書いている(と私も思っている)。
しかし、それも確かにそうだとは言い切れなかったりする。

私たちは、過去に自分が書いた文章を見て驚くことがある。
「へー、こんなことを書いてたんだ・・」
まったく記憶がないので、実感もなく、「ふーん」としか思えない。

逆に、記憶に残る文章もある。
私が絶対に忘れない文章は小学校1年生の時に書いた作文だったりする。
「ぼくのペットはいぬです。なまえはちびです」という一行目を、なぜか忘れないのだった。
さらに、その次の行も覚えている。さすがに文章の結論は忘れたけれど、この文章は私が書いた実感がある。

・・と書いていたら、『お金の現実』の一行目を思い出した。
「我が家にはバルタン星人がいる」

あらら、これは「ぼくのペットはいぬです」ではないか!!

なるほどなー、私は今日まで、「ぼくのペットはいぬです」を書き続けているってことか・・・・・・。

考えてみると仕事も同じかもしれないなー。

2014年10月
« 9月   11月 »
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
ページトップヘ