月別: 2012年1月
【TAROの日記】

2012/01/31(火) 08:51

本日も、雪をネタに・・

雪が殺人的レベルに突入した。
日曜日に、全部対応しておいて良かった。
「もう降らない・・」などと都合の良いことを考えて労働をおしんだら、えらいことになっていた。危ない、危ない。

今日は、スタッフのうちの2人が、仕事を休んで雪下ろしをするそうだ。
私と逆に、日曜日に対応しないで、甘めに対処した結果かな?

雪は、禍に似ている。
少しずつ積もる。
途中までは何でもない。
しかし、積もり続けると、どこかで閾値を超える。
そこからは、対応が遅いと、災害レベルになる。

非常にシンプルな世の中の型が、目の前で見ることができるのだ。

本日、雪下ろしをするスタッフのうちの一人が家を建てた場所は、雪が吹きだまりになる有名な場所だ。
彼は、そんなことを知らずに家を建てたが、私は、あの場所を地元の中堅不動産屋が造成を始めた時、その行動を疑った。
その場所は、私が父の猟のテコとして一緒に深い雪の中を歩いた思い出の場所。雪の深さと量が急激に変わる独特な状況に苦しんだものだ。
その場所には、今、家同士が密着して立っている。
あの場所の冬の特徴を知っている者には、信じられない光景だ。

幸い、造成をしてから暖冬が続いた。
1970年代~80年代の頃の大雪を経験せずに、住民は住むことができた。
しかし、そんな幸福は必ず終わる。

場所の特徴は変わらない。
たまたま状況が良かっただけだから、それは禍が留保されただけである。
住人達は、「今年は酷い・・」と思うだろうが、本当は、その場所が酷いのだ。

この状況、笑えない。
そこらじゅうにある光景だ。

私が、なんだかんだといって雪が好きなのは、こんなところにあるのかもしれない・・。

【TAROの日記】

2012/01/30(月) 08:56

いつも同じようなことばかり言ってるけど、雪凄すぎ・・。

しかしだよ・・。
やっぱり凄い!!

昨日時点で、こんな感じ ↓

土曜日に、東京から帰ったら、女と子供しかいない我が家の周囲はパニック状態。
雪国に住んでいるというのに、女と子供では危険の想定がまったくできないようで、各所が放置状態。正直、腹が立ったけど、出張しているこっちも悪い。そんなわけで、黙々と、雪掘り。
それでも、息子が手伝ってくれるようになったのが、救いでござんした。

日曜日も半日雪掘り。
雪国の住人は、こうしてお金にならないことに、時間と体力を使う。

ただ、嫌いではない。
そういうのもあっていいじゃない。
雪掘りを終えた後の雪に囲まれた我が家で、静かに過ごすのも、副交感神経にいい。
この感じは、晴天の太平洋側では絶対に味わえないのだ!!
日本人の中には、この感覚を知らない人もいるわけで、かわいそうに・・と思う。

これで、冬は、雪掘りだけしているだけでいい・・というならいいんだけどね・・。
さて、今日はガンガン働きますかね・・。

【TAROの日記】

2012/01/24(火) 08:28

続くもの

崎村さんの昨日のコメントを見て、「なるほどなー」と思った。

(崎村さんのコメント)
これは2007年に岡本さんのセミナーに参加した時の話。 セミナーの合間に趣味の話になった時、参加者の一人が「若い時は色々好きでやってた事もあったけど、今は仕事以外、時間があっても何もする事が思い浮かばない」と言った言葉 に岡本さんは「それは貴方が自分自身で、それらの苗木を切っちゃったからじゃあないですか?」と答えていました。 確かに『切ってはいけないもの』のお陰で、予期しなかった『風穴』が開いてしまうことがありますよね。

昨日の「風穴」の話は、これが前提だよな・・・。
私は、人生を「私」を中心に伸びていく”根”の絡まったもの・・と考えていて、余程の事がない限り、”根”は切らないと決めている。そのために、子供の頃からの趣味でさえ、今も現役。もちろん、やれなかった時もあるけど、完全にやめるということはない。
こういう前提のある男の昨日の発言なのだな・・・。なるほど、なるほど。
自分の昔の発言を他者を通して聞き、それで自己確認・・というのは悪くない。

さて、世の中の全般的な雰囲気は、こうした私の気分とは逆にある。

「新しいもの」
これが世の中の注目だ。

これとは、逆に、私の注目は、
「続くもの」

※この件については、将来、ニュースレターで本質的なことを書きます。

たまたまだけど、昨日、妻とこの件に関連する会話をした。
今日から私が再び出張のため、妻は言った。
「そろそろ、体力も落ちてるし、なんとかしたら・・」

私の返答は、
「自分からは止めない」
「続けろ・・という声がある限りは続けるのが心情」

気分は、完全に談志である。
私が、談志のようにギリギリまで高座に立つかはわからない。
落語家ならば、散る様子も芸。それに、時々、化学反応もある。
実務家にはそれは無理なので、去り際はある。

趣味も同様で、止めるときは来るだろう。
いつまでも、ジャンプしながらギターは弾けないし、だんだん、指も頭も回らなくなれば、適当なクリシェしかできなくなるだろう(そもそも、すでに、暗譜は無理)。

でも、続けないと「風穴」は開かない。
晩年談志が奇跡を起こしたように、時々来る「風穴」こそが価値なんだから、まー、情けなくても続けるが一番と思う。

まだまだ、忙しい日々が続く・・。

追伸
明後日は、ギター買いに行くぞ〜

【TAROの日記】

2012/01/23(月) 08:30

昔の種と今の私

「風穴」は、ひょんなところから開く・・・のか、それとも予定されているのか?

この疑問は、人生をやっていると、よく感じることだ。
そして、精神世界大嫌い人間の私でも、おそらく、ひょんなところから・・というのは現象であって、予定されているらしい・・と毎度感じる。

最近、開いた「風穴」で言えば、予定のスイッチが入ったのは、7年前または、22年前あたりだと思う。
開くまで時間はかかるけど、ひょんなところから開いてしまって、それは予定されていたのだ。

ところで、今、私の身に起きた「風穴」は、遊び関係である。毎度、毎度のギターである。
先週、バンドを遊びでやることになる。どうして、バンドがはじまってしまったかは、もういい加減で、それこそ、ひょんなところからである。そして、そんなものだから、やった曲も、初見でできるような曲ばかり。私たちは、まったく練習もしないで集まった。

ところが、それがきっかけになって、この土日、私は仕事の合間に、JAZZのアドリブ分析に結構時間を割いてしまった。「げろっぱ!」と叫んで、E♭のリフを永遠にかき鳴らして遊びもした。さらには、課題曲探しと称し、仕事をしながら、多数の曲を聞いた。選んだ曲は、練習しないとできない一曲。最早、先週集まって、適当にやっている次元にはいない。
この状況がどれだけ続くかわからないけど、そんな風になってしまった。
実は、ある方面からも、バンドのお誘いがきていて、その話自体は宙ぶらりんだけど、「なんだか、時期が来たらしい・・」と思っている。

遊びのことはどうでもよいけど、こういうことは、仕事でもよくある・・、と言うか、いつも、こんな感じに、ひょんなとこからはじまり、初見で軽く仕事をして、最後にはまる・・というのがパターンである。
種は、いつでも、かなり前に蒔かれている。そして、いつ蒔かれたかを考えると、ほとんどが、高校、大学時代であることに驚く。実は、あの10代後半から20代後半に、ほとんどのものが蒔かれているのである。

だから、現在の私は、昔の私をスクリーンで写した存在でしかない・・・とよく思う。
もちろん、種は、育てなくてはならない。今の私というプレイヤーに意義がないわけではない。
昔の私が種を蒔き、今の私がプレイする。したがって、私がやっている作業に、新しいものなんてほぼなく、多くが思い出すという作業に、「経験」という強力な香辛料がふりまいたものである。

しかし、「経験」という香辛料の価値はデカイ。これも痛感中。

【苦しめTAROお仕事LIVE】

2012/01/20(金) 08:56

裏付け

毎度同じ書き出しでイヤになるけど、久々に新潟に帰ってきた。
ながーーい出張で、途中風邪も引いたので、本当に辛かった。
でぇ、出張前に組織に対する不満も出たので、さっき朝礼でちょっと爆発もした。
そんなわけで、疲れているし、風邪の後遺症もあるし、「こんな組織ダメだ!」と捨てセリフも吐いたところなので気分が悪い。

出張は辛かったけれど、とても内容の濃いものとなった。
毎度の『年頭セミナー』を軸に、まー、いろんなことをしたり、させられたりした。
印象としては、幅がとても広がっている感じがする。
そうしたせいもあって、談志家元が、イリュージョンなんて言葉を言い出した気分がほんの少しわかるような気分になっている。

残念ながら、談志のイリュージョンの意味はわからない。
彼は、フロイトなどを引用して説明をしているが、この言葉の意味は彼以外には、本当のところはわからない。
だから、私が、彼を引用するのはあり得ないけれど、そのあり得ないところの行間みたいなところで、ちょっとそんな気がした(もちろん、勘違いだとは思うよ!)。

出張中、バンド遊びをした。
課題曲を持って、”バンド”という枠組みで演るのは、30年ぶりであった。
当然ながら、思ったように指は動かず腹も立ったが、そこそこ演れる可能性を見たので満足した。
メンバーにセミプロがいたのが大きかったわけだけど、この遊びの復活は、かなりうれしい誤算だった。

今回の出張中の仕事とバンド遊びの共通項は、身体性である。
毎度毎度の”身体性”への言及になってしまうけど、やっぱりそこだ。

身体とは、”裏”である。
この”裏”とは「裏付け」という意味である。
身体は、無意識であり、影であり、裏である。そして、その意味は「裏付け」なのだ。
私の身体感は、今までは、”無意識”の一言。自分の”無意識”との対話装置としての”身体”というのが、位置づけだった。

しかし、そんな薄っぺらなものではないのだ。
“無意識”とは、「裏付け」であり、その「裏付け」を育てるものは、身体なのだ。

楽器は、「裏付け」がないとできない。仕事ももちろんそうだ。
たかがEのコードを、ガーンと一発鳴らすだけでも、そこには、とんでもなく「裏付け」が伴う。
一発の音の振り下ろしで、振り下ろした右手がどこにあるか、その場所は、まんま人生の行く先なのかもしれない。大げさかもしれないけれど、「裏付け」というのはそういうことだ。

アドリブという「自由」では、それがさらに如実に表れる。
「自由」は、「裏付け」のない者には、与えられない。「裏付け」なきままの「自由」はデタラメだ。当たり前のことである。

・・・・・・・とここまで書いて思ったが、この文章は、メルマやニュースレターの原稿みたいになってきたので、ここで書くのを中止することにした。

複雑系の社会では、これが”たしなみ”です。お許しを。CHAO!!

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